空手の極意は居合にあり

これは俺の持論だけどね。居合をやっていたら組手のスタイルが変わり始めた。相手と動きを合わせちゃうことで相手の攻撃心を消滅させてしまう。無門会のユッタリズムとは形は違うけどこれだと思った。ただ、無門会では最終的には無門会のような組手の形になると言うけど、俺はここに疑問が残る。無門会の形はあくまで一つのスタイルであって、実戦とは千変万化していくものだ。極真空手の組手スタイルだって時代とともに変わって行ったんだからな。実戦は千変万化、そう考えたら俺のこの境地ももっともっと切り開いていく必要があるんだよ。ユッタリズムの境地をさらに切り開くんだよ。これで終わりだと言ってたらそこで止まってしまうのと同じだからな。俺は無門会時代になかなか上達しなくて、会長に慢心してるんだとか言われてたよ。それが悔しくてね。そんな慢心なんてかけらもなかったよ。そんな強さなんかなかったもんよ。ただ、俺も無門会に固執せずにいればよかったかもしれない。合わないものを無理やりやったって怪我するだけだ。石の上にも3年だからといって、無理に3年辛抱するよりも、3年かけてもいい師匠を探せという言葉があるんだから。でも、俺はどんな空手をやったところで結局は一人で自分の空手を追求していく道しか無かったろうな。師匠のいうことは絶対だと言って我慢するのも必要かもしれないが、ウマが合うじゃないけど、合わないのをいつまでも辛抱しても辛いだけだ。師匠とウマが合えば、ていうか師匠が合わせられなくてどうするんだ。そうやって極意というものが弟子に分かってくるんじゃないかな。師匠だって修業の身だ。一つのスタイルにだけこだわれば技も業となり、癖になる。癖はなくす努力をして本当のユッタリズムじゃないか。修業は技を修める、つまりは技も捨てなきゃならないんだよ。